ハリウッドのマニュアルの基本としてあるのは、大ざっぱに言うと「まず作品の全体像を調和ある形で整え、そこから逆算して細部を決定していく」ということだ。このような考え自体は、欧米では目新しくも何ともない。というよりはむしろ、このような考えこそヨーロッパの思考の保守本流だと言うべきだろう。昔からあるストーリーテリングについての考えを、誰でもすぐに使える形にシンプルに整理したものこそ、現在のハリウッドのマニュアルなのだ。
だから、シド・フィールドがアリストテレスやへーゲルに言及するのは、偶然ではない。劇作の構成原理として全体像の調和を重んじ、そのための方法論を最初に整備した著作こそ、アリストテレスの『詩学』だったわけだし、「全体性」についての思考自体をヨーロッパ史上最も完成された形で示した者こそ、へーゲルに他ならなかったわけだ。
へーゲルの弁証法は、常に二項対立に基づいている。ある概念があれば、それと反対の対立概念も存在し、両者は矛盾する。だがこの矛盾が解決されることで、対立する両者を含むより高次の概念が開かれる。そして、このような対立の集積がやがては世界の全体像に至る。世界の内で、部分と全体はスムーズに連続する。
ものすごくおおざっぱにまとめているが、ハリウッドのマニュアルはこれぐらいにまで要約された上でのへーゲル的な世界観に基づいていると言ってよい。主人公には必ず目的が存在し、その目的を達成するためには、様々な障害と衝突せざるを得ない。目的の達成のためには、それぞれの障害を乗り越える必要があり、一つ一つ乗り越えていくたびに、最も大きな最終目的に近づいていく。そして、このような構成を最も全体的に調和が取れた形にするには、主人公と対等に近い立場のライバルの存在が不可欠となる
。主人公の目的とライバルの目的が対立し、その闘争こそが目的の達成に対する最大の障害となり、そこでの勝利がすぐさま目的の達成につながるのであれば、ストーリーの構成は、首尾一貫した調和の取れたものとなる。
では、『マトリクス』の場合はどうなのだろうか。主人公であるネオの最大の目的は、「マトリクス」の支配から逃れることだ。しかし、この作品で言うところの「マトリクス」とは、全ての人間が知らず知らずの内にその内部に閉じ込められている巨大な仮想現実世界そのもののことだ。作中でモーフィアスが言うように、「マトリクス」は、あらゆる時に、あらゆる場所で、人間の周囲に常に偏在する。
ここに、『マトリクス』という作品の抱えた最大の問題がある。「マトリクス」とは世界そのものの構成原理のことであり、実体として具体的に存在するものではない。ゆえに、「主人公ネオ対マトリクス」という、二項対立の図式を作ることはできない。
つまり、「マトリクス」という概念自体が、へーゲル的な世界観とはうまく結びつかないのだ。「マトリクス」とはどう考えてもスピノザ的な概念なのであり、そのような題材をストーリーの中で処理できたのは、例えばフィリップ・K・ディックであるということになる。
「マトリクス」という概念は、ハリウッドの脚本システムでは描けない。それでもなお、そのシステムにのっとってストーリーを構成しようとすればどうなるのか。まさにここに、「エージェント」というキャラクターが創造された原因がある。エージェントとは、マトリクスという仮想現実世界の番人・監視者を務めるプログラムであり、仮想現実の内部では「いかにも悪役」という見た目をもって実体化される。
つまり、「主人公ネオ対マトリクス」という図式は描けないが、「主人公ネオ対エージェント・スミス」という図式ならハリウッドの脚本システムで描ける、ということだ。だからこそ、『マトリクス』第一作の脚本は破綻なく構成することができた。マトリクスそのものとの戦いは一切描かれず、ただマトリクスの代理者としてのエージェント・スミスとの戦いだけが描かれる。そして、エージェント・スミスに勝利した時点で、「マトリクスとの本当の戦いはこれから」ということだけが示唆されて第一作は終わる。
確かに、第一作だけを見れば、緊密に構成された脚本であるように思える。しかし実は、この脚本はこの時点ですでに続きなど書けないようなシロモノなのだ。所詮はエージェントは実体を持たない存在であり、実体のないマトリクスとは全く異なる。したがって、どれだけエージェントとの戦いを積み重ねようとも、マトリクスとの戦いには永久に到達しない。
だから、同じやり方をそのまま続けて、マトリクスが支配する世界の全体像を描こうとすること自体がすでに失敗だったのだ。それでももしやるとするなら、マトリクスは到達不可能な不可視の中心とした上で、その周囲をめぐるエピソードだけを積み重ね、その世界の全体像は決して示さない、そんなやり方しかないだろう。
しかし、ウォシャウスキー兄弟は、この題材とハリウッドの脚本システムが全くそぐわないことに自覚的でなかった。するとどうなるのか。このシステムにのっとっているかぎり、実体を持つ敵との戦いをストーリーの中心に据えざるを得ない。その結果、本来はマトリクスの代理人に過ぎなかったはずのエージェント・スミスの、作中で占める割合がどんどん増大することになる。
二作目以降、エージェント・スミスがネオに対して、「私とお前は特別な関係で結ばれている」というようなことをしきりに言うようになる。しかしこれは、ただ単に脚本の構成上そのようにしか書けなかったことをウォシャウスキー兄弟が自覚できていないというだけのことだ(ついでに言うと、三部作を通して、多くのキャラクターがいかにも哲学談義といった風に世界の原理を語っている。「誰もが選択を迫られる」とか「誰でも役割がある」とか「私の役割はこれ」とか「人は目的を持って存在する」とか「お前は私の目的を奪った」とか。しかし、これらは全て、「ストーリーやキャラクターはこのように構築しなければならない」という「ハリウッドの脚本システムの原理」をそのまま語っているだけなのだ。そんなものは別に世界の普遍的な原理でもなんでもないんだよと言いたい)。
そして、ついに三作目では、「マトリクス」という概念自体がむしろ脇役のようなものになり、「主人公ネオ対エージェント・スミス」という二項対立がストーリーの中心になってしまったわけだ。
ハリウッドの脚本マニュアルは万能ではない。このマニュアルでは処理しようのない題材もあるということを逆説的に証明してしまったのが、『マトリクス』三部作だったのだ。
『マトリクス』三部作はなぜ失敗したのか - The Red Diptych



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